鍼の技術を学ぶときは、最初から人の体に刺すのではなく、まず練習用の道具を使って基本的な姿勢や手の使い方を身につけます。
昔から、坐蒲団や糠袋などを使って鍼を刺す練習が行われてきました。
まず正しい姿勢や動作の型を身につけ、その後に人体への刺鍼へ進むのが基本的な順序とされています。
坂井梅軒は『鍼術秘要』の中で、初心者の練習法について次のように述べています。
まず竹筒の中に熱した糠をしっかり詰め、その上を絹で覆った練習台を作ります。
そして、
- 右手の親指と人差し指で鍼を持つ
- 力を入れすぎない
- 力が弱すぎない
ことを意識しながら刺鍼を繰り返します。
強く押しすぎると鍼は曲がり、弱すぎると進みません。
数十日ほど練習し、
- 鍼が曲がらない
- 呼吸を二〜三回する間に自然に刺入できる
ようになって初めて、人に刺してよいとしています。
また、鍼が曲がると皮膚に引っかかりやすくなり、思うような刺鍼ができなくなるとも述べています。
ただし、この方法は基本的な練習法の一つであり、ほかにもさまざまな練習法があります。
1.スポンジ練習法
近代になりゴムが普及してから行われるようになった方法です。
ゴムスポンジを練習台として使います。
表層は粗いゴム、その下に次々と密度の高いゴムを重ねて作ります。
坐蒲団よりも人体に近い感覚を得やすい練習法とされています。
2.三味線の糸通し練習法
スポンジの中に三味線の太い糸を通した練習台を使います。
スポンジには比較的簡単に鍼が入りますが、糸を正確に通すのは簡単ではありません。
上達するまでに三か月かかることもあります。
3.硬物通しの練習法
昔から行われてきた方法です。
桐、杉、樫などの木の板に鍼を刺して練習します。
最初は薄い板から始め、徐々に厚い板へ進みます。
練習を重ねることで、硬い材料にも鍼を通せるようになるとされています。
これは、
- 肋軟骨
- 恥骨軟骨
- 脊椎間板
などの変性部に刺鍼を想定した訓練と考えられていました。
また、この練習は「雨滴穿石」という言葉になぞらえられ、練習の呼吸を自然法則に合致させることを目的にしています。
4.浮物通しの練習法
水を溢れそうになるくらい一杯に張った容器の中に、
- キュウリ
- ナス
- 大根
- 人参
- リンゴ
などを浮かべ、それに鍼を刺す練習です。
この練習では、まず対象物の重心を見極める必要があります。
力を入れすぎると、
- 水が揺れる
- 対象物が動く
- 水がこぼれる
ため、繊細な力加減が求められます。
この方法は、不安定な部位や動きやすい場所への刺鍼技術を養うために行われていました。
また、昔は眼科を志す医師が、水に浮かぶ髪の毛を刃物で切る練習を行い、それができるようになって初めて手術を許されたという話も伝えられています。
5.生物通しの練習法
浮物通しの練習ができるようになると、次は動物を対象とした練習へ進む方法もありました。
当時は、
- 猫
- 犬
などに刺鍼して、生体反応を学ぶことが行われていました。
動物も生きた体であるため、
- 組織の反応
- 緊張の変化
- 鍼が進む感覚
などを学ぶことができます。
これは特に、
- 首
- 胸部
- 腹部
など、重要な部位への刺鍼技術を身につけるために役立つと考えられていました。
奥村三策先生は、
「眠っている猫に刺しても目を覚まさなければ上手である」
と語っています。
また、吉田弘道先生は、
「障子の向こうにいるハエを鍼で刺し、串刺しになり、抜いて、ハエが飛び去った。これができれば上上である」
と述べています。
鍼下に生ずる生体現象を手で感覚できるようになると、人体の頸部や胸腹部などの貴要部分に刺鍼するときに非常に役に立つと考えられていました。
一指刺し・線香刺し
刺鍼に慣れてくると、親指と人差し指だけでなく、一本の指だけでも鍼を操作できるようになります。
これを「一指刺し」または「線香刺し」といいます。
この技術では、力任せに刺すのではありません。
鍼が自然にしなる力よりも弱い力で十分だとされています。
強い力を加えると、
- 鍼が曲がる
- 思うように進まない
ためです。
ちょうど線香が折れない程度の力加減が理想とされています。
刺鍼で大切なこと
刺鍼では、技術だけでなく心構えも重要です。
そのためには、
- 心を落ち着かせる
- 姿勢を整える
- 気海丹田に力を入れる
- 呼吸を整える
ことが大切とされています。
また、
- 押手と刺手を一体として使う
- 患者さんの呼吸に合わせる
ことで、皮膚や筋肉が自然に鍼を受け入れやすくなり、無理のない刺入につながると考えられています。
総じて、刺鍼の上手さは技術だけではなく、心構えや体の使い方によって大きく左右されます。
基本がしっかり身につけば、安定した刺鍼ができるようになります。
柳谷素霊は、蚊が刺すときの姿勢にも学ぶべき点があると述べています。
蚊は体勢を整え、針をまっすぐ立て、無理なく徐々に刺し込んでいます。
こうした自然な動きの中にも、刺鍼の技術を学ぶヒントがあると考えられていたのです。
参考文献:柳谷素霊『鍼灸の実技』(昭和三十四年)
